生活

北里柴三郎は何した人?その子孫や名言を知りたい!

日本における「近代医学の父」として知られ、伝染病予防や細菌学の発展に大きく貢献し、「日本の細菌学の父」とも呼ばれる北里柴三郎。

今回2024年度上期から現在の野口英世に代わって、新千円札の顔となることが発表されました。

そんな北里柴三郎とはいったいどんな人なのでしょうか?
その功績や現在の子孫についてご紹介します。

スポンサーリンク

北里柴三郎は何した人?近代医学の父って言われる所以は?

北里柴三郎は1853年1月29日(嘉永5年12月20日)、今の熊本県阿蘇郡にて代々床屋を務める家に生まれました。

幼いころから両親の教育は厳しく、8歳の時には2年間親戚の家に預けられ漢学者の伯父から四書五経を教わっていました。

その後、18歳の時に熊本医学校(現在の熊本大学医学部)に入学し、医学の道を志しました。

その3年後には東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学しました。
しかし教授の論文によく口出しをしていたため、大学側と仲が悪く何度も留年をしていたという意外な一面もあります。

在学中「医者の使命は病気を予防することにある」と確信し、予防医学を生涯の仕事とする決意をしました。

そして1883年、大学卒業後に内務省衛生局に入局しました。
まさにエリート街道ですね。

1886年からはドイツに6年間留学し、留学中の1889年に破傷風菌の純粋培養に成功しました。

さらにその毒素に対する免疫抗体を発見し、それを応用して治療法を確立しました。
この功績により一躍世界的に有名な研究者となりました。

1892年には帰国してすぐに、福澤諭吉の支援のもと私立伝染病研究所を創立しました。
そこで伝染病予防と細菌学の研究に取り組みました。

1893年、日本最初の結核専門病院となる土筆ヶ丘養生園を開設し、結核予防と治療に努めました。

その翌年1894年にはペストの原因調査のために香港へ行き、そこでペスト菌を発見しました。

受賞には至らなかったものの、1901年には第一回ノーベル生理学・医学賞の公式候補に選ばれました。

明治時代になり、新政府に対して、衛生行政を中心とした伝染病対策なども重要であると提唱しました。
そこで北里柴三郎は細菌学を使った新しい予防治療法を確立し、後継者の育成や衛生思想の普及に努めました。

さらに、日本医学会を始め、日本医師会、結核予防会等、現在にも引継がれている組織や医療団体の創設にも貢献し、日本医学の近代化に尽力し、近代医学の父といわれるようになりました。

結核などの伝染病が昔の病気になっているのは北里柴三郎のおかげともいえます。

北里柴三郎の子孫ってどうしてる?

北里柴三郎は1883年に結婚しており、3男3女6人の子供がいます。
長男・・・俊太郎(1895年生まれ)
次男・・・善次郎(1897年生まれ)
三男・・・良四郎(1907年生まれ)
長女・・・安子(1893年生まれ)
次女・・・?
三女・・・?

長男・俊太郎は法科、次男・善次郎は理科に進み、三男・良四郎は工学に進んで実業家となりました。
優秀な人の子供はやはり優秀なようですね。

長男の俊太郎は土木・鉄道技術者の杉浦宗三郎の三女・てる子と結婚し一児をもうけました。
しかし9歳年下の22歳の赤坂の芸妓・琴寿と中禅寺湖で心中未遂(芸妓は水死)を起こし、それが原因となり、てる子と離婚しました。
その後横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚しました。

長女の安子は経済学者、政治家、実業家(東宝社長)の渡辺銕蔵と結婚しています。

そしてチョコで有名な明治製菓の最高顧問の北里一郎さんは次男善次郎さんの長男であり、北里柴三郎の孫にあたります。

このように現在も北里柴三郎さんの子孫の方々は日本の経済界で活躍しています。
優秀なDNAは現代にも受け継がれているのですね。

スポンサーリンク

北里柴三郎の名言をご紹介!

数々の偉業を成し遂げた彼の名言をご紹介します。

「医者の使命は病気を予防することにある」

今では予防接種の普及など、予防をすることが当たり前になっていますが、当時はとても画期的な考え方でした。

治療薬の研究ももちろん大切ですが、感染しないように予防するための知識をつけることの大切さを普及させたことはとても大きな功績です。

まさに治療より予防を推奨する現代医学のもととなる名言といえるでしょう。

「研究だけをやっていたのではダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかを考えよ」

その当時の医療の実態に対する不満が現れている言葉です。

医学には病気を予防する力があると気づいた北里柴三郎は、それを学ぼうとしない医者に対する憤りを感じていたようです。

「君、人に熱と誠があれば何事でも達成するよ」

負けん気の強い北里柴三郎は、人前で弱みを見せることはなかったと思われるが、ドイツでの留学生活は決して楽なものではありませんでした。

その中でも誰よりも長時間、熱心に働き、着実に成果を挙げ、信頼を得るとともに、頭角を現していきました。

そんな経験をした彼のこの言葉はすごく説得力があり、現代の人にも響く名言です。

まとめ

北里柴三郎さんの名前を今回初めて聞いたという方もいるかもしれませんが、日本が長寿大国になったのも北里柴三郎さんのおかげともいえます。

数々の功績を残し、現代の日本を支えてくれていることを考えると新1000円札の顔となるのも納得です。

新しい顔となる人たちの功績を調べてみると、新しいお札を手に取るのが楽しみになること間違いなしです。
ぜひ10,000円札の渋沢栄一さん、5,000円札の津田梅子さんについても調べてみてくださいね。

スポンサーリンク