生活

津田梅子は何した人?梅ちゃん先生と同じ?名言をご紹介!

日本における「女子教育の先駆者」として知られ、日本の女性の地位向上と教育に大きく貢献した津田梅子。津田塾大学の創始者でもあります。

今回2024年度上期から現在の樋口一葉に代わって、新5千円札の顔となることが発表されました。では、津田梅子とはいったいどんな人なのでしょうか?

また朝ドラの梅ちゃん先生は津田梅子のこと?というのも話題になっていますよね。
そんな津田梅子さんの功績や名言などをご紹介します。

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津田梅子は何した人?女子教育の先駆者と呼ばれる所以は?

津田梅子といえば言わずと知れた現「津田塾大学」の創始者です。

でもそこに至るまでにはかなりの苦労があったんです。

津田梅子が女子教育の先駆者と呼ばれるのは?

津田梅子は1864年12月31日に江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)で幕臣だった父の津田仙の家に次女として生まれました。

幕臣だった父は幕府崩壊とともに職を失いますが、その後1869年に築地のホテル館で働き始め、一家は向島に引っ越します。

1871年には父が北海道開拓使の嘱託となり、麻布へ引っ越します。

開拓使次官であった黒田清隆は女子教育にも関心のある人物で、父は黒田清隆が企画した女子留学生に応募させ、その結果留学する5人のうちの一人に選ばれ、岩倉使節団に随行して渡米しました。

5人のうち満6歳と最年少でした。
この留学期間は10年と決められていました。

留学が終わるころには日本にいた期間の方が短くなってしまうということです。

それを知ったうえで娘を送り出したご両親はすごいですね。

1881年に決まり通り帰国命令が出ましたが、在学中だったため延長を希望し、1882年に帰国しました。

しかし、幼少期に人生の半分以上を異国で過ごしたため、日本語も忘れてしまっていて、日本の慣習になじむのは困難でした。

今とは違い、明治時代にはグローバル化も進んでおらず、身につけた西洋の学問や生活習慣を、活かせる場所はありませんでした。

一緒に最後まで留学生活を過ごしていた二人の友人は軍人に嫁ぎましたが、梅子は日本での結婚観に嫌気が差し、途方にくれました。

津田梅子の転機

そんなときに、外務卿の井上馨から夜会への招待がきて、伊藤博文から華族子女を対象にした教育を行う桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介されました。

その縁から伊藤博文に英語を教えるために伊藤博文宅に滞在し、下田歌子に日本語を教わりながら、桃夭女塾の生徒たちに英語を教えていました。

後に仕事ぶりを認められ、華族女学校の英語教師を3年間勤めました。

1888年には留学時代の友人のアリス・ベーコンが来日し、彼女の勧めでふたたび留学し、大学で生物学を学びます。

3年間の課程が終わったとき、大学側からアメリカにとどまることを勧められますが、日本で女子教育を広める大切さを留学中に実感していたため断り帰国します。

帰国したのちは再び華族女学校に勤めながら明治女学院でも講師を務め、より一層女子教育の支援を積極的に行いました。

1899年には高等女学校や私立学校令が公布されて法整備の面も整い、女子教育への機運が高まりました。

そして1900年に女子英学塾(今の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出し、認可を受けて東京麹町区に開校し、塾長となります。
女子英学塾では華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始めました。

こういった津田梅子の功績により、現在では女性が教育を受けること、社会に出て自立することが当たり前になりました。

これが女子教育の先駆者と呼ばれる所以です。

梅ちゃん先生って津田梅子なの?朝ドラになってる?

紙幣の肖像画変更のニュースが出ると同時に、津田梅子って「梅ちゃん先生」のこと?
という声がネットで多く挙がりました。

しかし、朝ドラの「梅ちゃん先生」と津田梅子は全くの別人です。
先生というところから学校が連想され、このような声が挙がったのでしょうか。

『梅ちゃん先生』は2012年上半期に放送されたNHKの朝ドラで、東日本大震災の復興支援プロジェクトの一環として製作されました。

朝ドラ梅ちゃん先生のあらすじは?

「梅ちゃん先生」のあらすじをご紹介します。

1945年、戦争で焼け野原となった蒲田に家族6人で暮らしている高等女学生の梅子は、勉強は苦手でいつも失敗ばかりし、劣等感を抱いていた。

しかしある日、医者である父親の勇姿を目の当たりにし、自分も医者を志す。

努力して医師免許取得後、大学病院に就職する。
様々な経験を経て大学病院を退職し蒲田の町医者になる。

そこでは終末医療や家庭内不和、医療費の回収問題や家事育児と仕事との両立、そして総合病院との競合・淘汰といった様々な難題に直面する。

これらの経験を経て梅子は、か弱く頼りのない一人の女学生から、町の人々に頼られる立派な一医師に成長していく。

なお『梅ちゃん先生』は完全にオリジナルの脚本であり、実在の人物がモデルではなく、架空の人物です。
二人とも「梅子」という名前で、激動の人生であるという点では共通していますが、
全くの別人です。

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津田梅子の名言をご紹介!

ここでは津田梅子の名言をご紹介します。

この学校に限らず、他のどの学校においても、学校だけで皆さんの行く手にあるものに対処できる力を完全につけてあげることはできません。

これは受け身の学生が多い現代の学生に聞かせてあげたい言葉です。
ただ優秀な先生の集まる予備校に通っても成績が上がるというわけではありません。

環境より学ぶ意志があればいい。

上でも述べたように、ただ学校に通うだけでは知識はつきません。
生徒たち一人ひとりの自ら学ぶ意志こそが重要なのです。

人生の導き手である良い書物は、その書物のなかで語る偉人たちの言葉は、求めさえすれば皆さんのものとなることでしょう。

活字離れが進んでいる現代人には耳が痛い言葉かもしれません。
この時代から読書することの大切さは変わらないようです。

何かを始めることはやさしいが、それを継続することは難しい。
成功させることはなお難しい

信じれば夢は叶うなどと甘い言葉を言わないところが、いろんな経験をして苦労してきた津田梅子らしい名言です。
なかなか世の中簡単には成功しないものです。

高い志と熱意を持ち、少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう。

津田塾大学設立にあたって留学時代の友人たちの助けを借りて乗り切った津田梅子の言葉です。
しかし津田梅子の高い志と熱意があったからこそ、友人たちは共感し、手助けしてくれたのでしょう。

まとめ

津田梅子さんの名前を今回初めて聞いたという方もいるかもしれませんが、日本でこうして当たり前に女性が教育を受け、社会進出していることは津田梅子さんのおかげともいえます。

数々の功績を残し、現代の日本を支えてくれていることを考えると新5,000円札の顔となるのも納得です。

新しい顔となる人たちの功績を調べてみると、新しいお札を手に取るのが楽しみになること間違いなしです。
ぜひ10,000円札の渋沢栄一さん、1,000円札の北里柴三郎さんについても知ってみてください。

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